ニーチェの哲学を英語で読んでみませんか。
今回取り上げるのは、『喜ばしき知』に収められた「Aboard Ship!(出航せよ!)」という有名な断章です。哲学者たちに船出を呼びかけるこの文章には、道徳や正義をめぐるニーチェの独創的な考え方が凝縮されています。
英文には、長い文の構造や語彙のニュアンスなど、英語学習者にとって興味深いポイントが数多くあります。無味乾燥な英文で勉強することに飽きた人には、超おすすめの教材。
この記事では、パブリックドメインの英訳を一文ずつ取り上げ、語彙・構文・思想的背景を解説しながら日本語に訳していきます。英語の読解力を鍛えつつ、ニーチェの哲学に触れてみましょう。
なお英訳はPaul V. Cohn、Thomas Common、Maude Dominica Petreによるもの。日本語訳は筆者が行っています。
英語でニーチェの文章を読んでみる
今回取り上げるのは、ニーチェの『喜ばしき知』に収められた「Aboard Ship!(出航せよ!)」。
この文章の中心にあるのは、人はそれぞれ、自分の生き方を肯定できる独自の哲学を必要としているという考え方です。
ニーチェは、苦しんでいる人や社会から外れた人に、単に同情したり、既存の道徳に従わせたりすることを求めません。むしろ、一人ひとりが自分の人生を肯定できるような新しい哲学と正義が必要だと訴えます。そして最後に、哲学者たちに向かって「出航せよ!」と呼びかけるのです。
英文には、長い挿入句やセミコロン、比喩表現が数多く登場します。一文ずつ読み解きながら、英語の読解力とニーチェの思想を深めていきましょう。
Aboard Ship!—When one considers how a full philosophical justification of his mode of living and thinking operates upon every individual—namely, as a warming, blessing, and fructifying sun, specially shining on him; how it makes him independent of praise and blame, self-sufficient, rich and generous in the bestowal of happiness and kindness; how it unceasingly transforms the evil to the good, brings all the energies to bloom and maturity, and altogether hinders the growth of the greater and lesser weeds of chagrin and discontent:—one at last cries out importunately: Oh, that many such new suns were created! The evil man, also, the unfortunate man, and the exceptional man, shall each have his philosophy, his rights, and his sunshine! It is not sympathy with them that is necessary!—we must unlearn this arrogant fancy, notwithstanding that humanity has so long learned it and used it exclusively—we have not to set up any confessor, exorcist, or pardoner for them! It is a new justice, however, that is necessary! And a new solution! And new philosophers! The moral earth also is round! The moral earth also has its antipodes! The antipodes also have their right to exist! there is still another world to discover—and more than one! Aboard ship! ye philosophers!
第1文:自分の哲学がもたらすもの
Aboard Ship!—When one considers how a full philosophical justification of his mode of living and thinking operates upon every individual—namely, as a warming, blessing, and fructifying sun, specially shining on him; how it makes him independent of praise and blame, self-sufficient, rich and generous in the bestowal of happiness and kindness; how it unceasingly transforms the evil to the good, brings all the energies to bloom and maturity, and altogether hinders the growth of the greater and lesser weeds of chagrin and discontent:—one at last cries out importunately: Oh, that many such new suns were created!
語彙
| 英単語・表現 | 意味 |
|---|---|
| aboard ship | 船に乗って、乗船して |
| consider | よく考える、考察する |
| philosophical justification | 哲学的な正当化、哲学による正当性の根拠づけ |
| mode of living and thinking | 生き方と思考のあり方 |
| operate upon | ~に作用する、~に働きかける |
| namely | すなわち、具体的に言えば |
| fructifying | 実りをもたらす、豊かにする |
| independent of | ~から独立した、~に左右されない |
| self-sufficient | 自足した、自己充足した |
| bestowal | 授与、与えること |
| unceasingly | 絶え間なく |
| bloom and maturity | 開花と成熟 |
| weed | 雑草 |
| chagrin | 悔しさ、無念、落胆 |
| discontent | 不満 |
| cry out | 大声で叫ぶ |
| importunately | しつこく、切実に、執拗に |
| Oh, that … were …! | どうか~であってほしい! |
philosophical justification は、この文章を理解するうえで重要な表現です。ここでいう「正当化」とは、自分がどのように生き、どのように考えるのかについて、哲学的な根拠を与え、その生き方を肯定できるようにすることです。
また、fructifying は fruit(果実)と同じ語源を持つ語です。太陽が植物に実りをもたらすように、哲学が人間の可能性を育てるという比喩につながっています。
構文解析
この文は非常に長いですが、主節を先に見つけると読みやすくなります。
文全体の骨格は次のとおり。
-
When one considers …:~について考えてみると
-
one at last cries out …:人はついに~と叫ぶ
つまり、「あることを考えてみると、ついには~と叫びたくなる」という構造です。
まず、冒頭の Aboard Ship! は断章のタイトル。
続く When one considers の one は、特定の誰かではなく「人は」「人が」といった一般論を表す代名詞です。
その後の how で始まる節は、considers の目的語に相当します。
how a full philosophical justification of his mode of living and thinking operates upon every individual
「自分の生き方と思考のあり方を哲学的に十分に正当化することが、一人ひとりにどのように作用するか」
ここでの his は、特定の男性を指すというより、一般的な人間を受ける表現です。
続く部分では、セミコロンで区切りながら、哲学が人間にもたらす作用を三つの how 節で説明しています。
① 太陽として働く
namely, as a warming, blessing, and fructifying sun, specially shining on him
-
namely:すなわち
-
as a … sun:~のような太陽として
-
specially shining on him:とりわけその人を照らす
哲学は、人を温め、祝福し、実りをもたらす太陽にたとえられています。
② 他人の評価に依存しなくなる
how it makes him independent of praise and blame, self-sufficient, rich and generous in the bestowal of happiness and kindness
動詞 makes は、ここでは「~をある状態にする」という使役的な意味です。
構造は次のようになります。
-
makes him independent of praise and blame:彼を賞賛や非難に左右されない人にする
-
self-sufficient:自己充足した状態にする
-
rich and generous in …:~を与えることにおいて豊かで寛大な状態にする
rich and generous は、直前の him の状態を説明しています。
③ 悪いものを良いものへ変える
how it unceasingly transforms the evil to the good, brings all the energies to bloom and maturity, and altogether hinders the growth of …
ここでは三つの動詞が並列されています。
-
transforms A to B:AをBへと変える
-
brings A to …:Aを~の状態に導く
-
hinders the growth of …:~の成長を妨げる
最後の the greater and lesser weeds of chagrin and discontent は、直訳すれば「悔しさや不満という大小の雑草」です。
そして、コロンとダッシュを挟んで主節の結論が現れます。
one at last cries out importunately
「人はついに、切実に叫ぶ」。
ここまでの長い部分は、すべてこの結論につながっています。
最後の Oh, that many such new suns were created! は、願望を表す構文です。
Oh, that + 主語 + 過去形 は、実現していないことへの願いを表し、「どうか~であってほしい」という意味になります。ここでの were created は仮定法的な形です。
背景知識
この文でニーチェが強調しているのは、哲学が単なる知識や理論ではなく、人間の生き方そのものを支える力になりうるということです。
自分の生き方に哲学的な根拠があれば、他人から褒められようと、批判されようと、それだけで自分を見失うことはありません。また、自分の内面が満たされていれば、他人に幸福や親切を与えることもできるようになります。
特に注目したいのは、哲学が「太陽」にたとえられている点です。
太陽は、土地や植物によって、その光から得られるものは異なります。同じように、人間にもそれぞれ異なる生き方や思考があり、それぞれにふさわしい哲学(太陽)があるという発想が、この比喩には込められています。
また、the evil to the good という表現にも注意が必要です。ここでニーチェが述べているのは、単に悪い行為を道徳的に善い行為へ変えるという話ではありません。自分にとって不利なものや否定的に見えるものを、哲学を通して別の仕方で捉え直し、生きる力へと変えていくことも含意していると考えられます。
日本語訳
自分の生き方と思考のあり方を哲学的に十分に正当化することが、一人ひとりにどのように作用するかを考えてみよう。それは、その人だけを特別に照らす、温かく、祝福をもたらし、実りを与える太陽のように作用するのである。
それは人を賞賛や非難に左右されない存在にし、自足した人間にする。そして、幸福や親切を惜しみなく与えられる、豊かで寛大な人間にする。
さらに、それは絶え間なく悪いものを良いものへと変え、あらゆる力を開花と成熟へと導き、悔しさや不満という大小の雑草が育つのを、すっかり妨げる。
こうしたことを考えると、人はついに、切実な思いで叫ばずにはいられなくなる。「どうか、このような新しい太陽が、もっとたくさん生まれますように!」と。
第2文:悪人も、不幸な人も、それぞれの太陽を
The evil man, also, the unfortunate man, and the exceptional man, shall each have his philosophy, his rights, and his sunshine!
語彙
| 英単語・表現 | 意味 |
|---|---|
| evil | 悪、邪悪な |
| unfortunate | 不幸な、不運な |
| exceptional | 例外的な、普通とは異なる |
| shall | ~するものとする、~であるべきだ |
| each | それぞれ |
| rights | 権利 |
| sunshine | 日光、太陽の光 |
exceptional man は「例外的な人間」という意味です。一般的な規範や社会の常識から外れた人、あるいは通常の価値基準では捉えにくい人を指すと考えられます。
sunshine は第1文に出てきた「太陽」の比喩を引き継いでいます。ここでは、各人が自分の人生を肯定するための哲学や、それによって得られる精神的な支えを表しています。
構文解析
主語は三つの名詞句から成っています。
-
The evil man
-
the unfortunate man
-
the exceptional man
この三つが and で結ばれ、述語の shall each have につながります。
shall each have は「それぞれが持つべきである」「それぞれが持つことになる」という意味。ここでは、未来の予測というより、ニーチェの強い主張や要求を表しています。
his philosophy, his rights, and his sunshine は、have の目的語です。
同じ his が三回繰り返されることで、それぞれの人間に固有の哲学、権利、そして太陽があるという点が強調されています。
背景知識
この一文では、第1文で述べられた「新しい太陽」が、誰に必要なのかが明らかになります。
それは、社会的に評価されている人や、道徳的に立派だと認められている人だけのものではありません。悪人、不幸な人、そして普通とは異なる人にも、それぞれの哲学と権利が必要だというのです。
日本語訳
悪人にも、不幸な人にも、そして例外的な人にも、それぞれ自分自身の哲学と権利、そして自分を照らす太陽が与えられるべきなのだ!
第3文:必要なのは同情ではない
It is not sympathy with them that is necessary!
語彙
| 英単語・表現 | 意味 |
|---|---|
| sympathy | 同情、共感 |
| necessary | 必要な |
sympathy は、他人の苦しみを理解し、気持ちを寄せることを意味します。文脈によって「同情」「共感」などと訳し分けられます。
構文解析
この文は、It is not A that is B という強調構文です。
-
It is not sympathy with them:彼らへの同情なのではない
-
that is necessary:必要なのは
全体として、「必要なのは、彼らに同情することではない」という意味になります。
with them は sympathy にかかり、「彼らへの同情」を表しています。
背景知識
前の文では、悪人や不幸な人にも、それぞれの哲学と権利が必要だと述べられていました。ここでは、そのために必要なのは同情ではないと、議論をさらに進めています。
同情は、一見すると相手を助ける善意の行為です。しかし、同情する側とされる側の間に、「助ける人」と「助けられる人」という上下関係が生まれることもあります。
ニーチェが問題にしているのは、相手を自分より弱い存在とみなし、自分の価値観を基準にして相手を理解したつもりになる態度です。
この文章の論理では、相手を自分の基準に合わせて救済しようとするのではなく、相手が自分自身の生を肯定できる可能性を認めることが重要になります。
日本語訳
彼らに必要なのは、同情することではない!
第4文:傲慢な思い込みを捨てる
—we must unlearn this arrogant fancy, notwithstanding that humanity has so long learned it and used it exclusively—we have not to set up any confessor, exorcist, or pardoner for them!
語彙
| 英単語・表現 | 意味 |
|---|---|
| unlearn | 学んだことを捨てる、身についた考え方を改める |
| arrogant | 傲慢な |
| fancy | 空想、思い込み |
| notwithstanding | ~にもかかわらず |
| humanity | 人類、人間社会 |
| exclusively | もっぱら、排他的に |
| set up | 設ける、立てる |
| confessor | 告解を聞く聴罪司祭 |
| exorcist | 悪魔祓いをする人 |
| pardoner | 赦免を与える人、罪を許す人 |
unlearn は興味深い動詞です。learn が「学ぶ」であるのに対して、unlearn は、すでに身につけてしまった知識や習慣、思い込みを捨てることを意味します。
また、confessor、exorcist、pardoner は、いずれも宗教的な救済や罪の処理に関係する言葉です。三つを並べることで、ニーチェが批判する態度を具体的に示しています。
構文解析
まず、we must unlearn this arrogant fancy が基本となる節です。
-
we:私たちは
-
must unlearn:捨て去らなければならない
-
this arrogant fancy:この傲慢な思い込みを
続く notwithstanding that humanity has so long learned it and used it exclusively は、「人類が長い間それを学び、もっぱら用いてきたにもかかわらず」という譲歩の表現。
it は、直前の this arrogant fancy を指しています。
さらに、ダッシュを挟んで次の主張が続きます。
we have not to set up any confessor, exorcist, or pardoner for them
ここでの have not to は「~する必要はない」「~すべきではない」という意味です。現代英語では do not have to のほうが一般的ですが、古い英語や文語的な表現ではこの形も見られます。
set up は「設置する」「設立する」という意味で、ここでは彼らのために宗教的な救済者を立てることを指しています。
背景知識
この一文は、ニーチェの宗教批判と深く関係しています。
キリスト教の伝統では、罪を告白し、罪の赦しを求め、悪から救済されるという考え方が重要な位置を占めてきました。ニーチェは、そうした枠組みを通して人間を理解し、評価することに疑問を投げかけます。
ここで挙げられる三つの役割には、それぞれ違いがあります。
-
confessor:人の罪の告白を聞く者
-
exorcist:悪霊を追い払う者
-
pardoner:罪を赦す者
いずれも、本人の外側に立ち、その人の問題を宗教的な権威によって処理する役割です。
ニーチェは、悪人や不幸な人を、誰かに罪を赦してもらったり、悪から救い出してもらったりしなければならない存在として扱うこと自体を批判しています。
相手を救済の対象として扱うことで、かえって相手の自立性や独自性を認めなくなってしまう。そのような構造を問題にしていると読むことができるでしょう。
5. 日本語訳
――私たちは、この傲慢な思い込みを捨て去らなければならない。人類は長い間それを学び、もっぱらそれに頼ってきたのだが。
彼らのために、告解を聞く司祭や、悪魔祓いをする者、罪を赦す者を立てる必要はないのだ!
第5文:必要なのは新しい正義である
It is a new justice, however, that is necessary!
語彙
| 英単語・表現 | 意味 |
|---|---|
| justice | 正義、公正、正義のあり方 |
| however | しかしながら、それでも |
構文解析
この文も強調構文です。
It is a new justice … that is necessary.
-
It is a new justice:新しい正義なのだ
-
that is necessary:必要なのは
however は「しかしながら」という意味で、直前までの議論を受け、必要なものを改めて提示しています。
背景知識
ニーチェは、同情や宗教的な救済に代わるものとして、「新しい正義」を求めます。
ここでいう正義は、単に法律を公平に適用することだけではないでしょう。既存の道徳基準によって人間を善人と悪人に分類し、逸脱した人を矯正したり、救済したりするという発想そのものを見直すことが問題になっています。
日本語訳
しかし、必要なのは新しい正義なのだ!
第6文:新しい解決策と新しい哲学者たち
And a new solution! And new philosophers!
語彙
| 英単語・表現 | 意味 |
|---|---|
| solution | 解決、解決策 |
| philosopher | 哲学者 |
構文解析
この文は、主語や動詞を省略した二つの短い表現からできています。
完全な文に補えば、次のように考えられます。
-
And a new solution [is necessary]!
-
And new philosophers [are necessary]!
直前の a new justice … is necessary の述語を引き継いでいると理解すれば、意味が明確になります。
短い文を畳みかけることで、主張に勢いを持たせています。
背景知識
新しい正義が必要なら、それに対応する新しい解決策も必要です。そして、その新しい考え方を生み出す哲学者も求められます。
ニーチェにとって哲学者は、既存の知識を整理したり、過去の思想を解説したりするだけの存在ではありませんでした。何が善であり、何が価値ある生き方なのかという問題を、根本から問い直す役割を担います。
この断章では、哲学者自身が従来の道徳的な枠組みから自由になり、新しい価値の可能性を切り開くことが期待されています。
日本語訳
そして、新しい解決策を! 新しい哲学者たちを!
第7文:道徳の地球にも裏側がある
The moral earth also is round!
語彙
| 英単語・表現 | 意味 |
|---|---|
| moral | 道徳的な、道徳に関する |
| earth | 地球、大地 |
| round | 丸い、球形の |
構文解析
主語は The moral earth、動詞は is、補語は round です。
also は「~もまた」という意味で、後続する「道徳の地球にも」という含みを持たせています。
通常の語順なら The moral earth is also round. とも表現できますが、ここでは also を動詞の前に置く語順によって、文全体に文語的な響きを与えています。
背景知識
地球が球形であるなら、ある地点から見える世界がすべてではありません。自分が立っている場所の反対側にも、別の土地が広がっています。
ニーチェは、この地理的な事実を道徳の世界に当てはめます。
ある社会で正しいとされる道徳も、人間の価値観のすべてを代表するわけではありません。ある場所から見れば正しいことでも、別の場所から見れば違った姿を見せる可能性があります。
この比喩は、善悪の判断を絶対的なものとして受け入れるのではなく、その判断がどのような視点や価値観に基づいているのかを問い直す姿勢につながります。
ニーチェの思想を理解するうえで重要なのが、こうした価値観の多様性への着目です。私たちが当然だと思っている道徳も、唯一可能な見方とは限らないのです。
日本語訳
道徳の地球もまた、丸いのだ!
第8文:道徳の地球にも対蹠地がある
The moral earth also has its antipodes!
語彙
| 英単語・表現 | 意味 |
|---|---|
| antipode | 対蹠地、地球の反対側に位置する地点 |
| antipodes | 対蹠地、正反対の場所や地域 |
antipodes は、地球上である地点の正反対に位置する場所を意味します。比喩的に、あるものと正反対の立場や考え方を指すこともあります。
構文解析
構造は非常にシンプルです。
-
The moral earth:道徳の地球
-
also has:~もまた持っている
-
its antipodes:その対蹠地を
第7文とほぼ同じ構造を繰り返しています。
背景知識
第7文では、道徳の地球も丸いと述べられました。この文では、そこから一歩進んで、その地球には対蹠地、つまり反対側の場所があると指摘します。
地球上では、自分のいる場所の反対側にも土地が存在します。同じように、道徳の世界にも、ある価値観とは正反対の価値観が存在しうるのです。
重要なのは、反対の価値観が存在するという事実を、ただちに誤りや悪とみなさないことです。ニーチェは、既存の道徳を唯一の基準とするのではなく、それとは異なる価値観がどのような意味を持つのかを探ろうとしています。
日本語訳
道徳の地球にもまた、対蹠地があるのだ!
第9文:対蹠地にも存在する権利がある
The antipodes also have their right to exist!
語彙
| 英単語・表現 | 意味 |
|---|---|
| right to exist | 存在する権利 |
| antipodes | 対蹠地、正反対の立場 |
構文解析
主語は The antipodes、動詞は have、目的語は their right to exist です。
right to exist は「存在する権利」という意味で、to exist が right の内容を説明しています。
also は「~もまた」という意味。前の文までの議論を受け、正反対の立場にも、その存在を認められるべきだという主張が示されています。
背景知識
この文は、断章全体の主張を端的に表しています。
道徳の世界に複数の価値観があるのなら、既存の価値観と異なるという理由だけで、その存在を否定してよいのでしょうか。
ニーチェは、そうした問いを読者に突きつけています。
日本語訳
対蹠地にもまた、存在する権利があるのだ!
第10文:発見すべき世界は、まだほかにもある
there is still another world to discover—and more than one!
語彙
| 英単語・表現 | 意味 |
|---|---|
| still | まだ、依然として |
| another | もう一つの、別の |
| discover | 発見する |
| more than one | 一つ以上、複数 |
another world は「もう一つの世界」「別の世界」です。ここでは、物理的な惑星というより、これまで知られていなかった価値観や生き方の世界を指しています。
more than one は、直前の world を受けています。「一つだけではなく、複数ある」という意味です。
構文解析
文の基本構造は次のとおり。
There is still another world to discover.
There is … は「~がある」という存在構文です。
-
There is:~がある
-
still another world:まだ別の世界が
-
to discover:発見すべき、発見するための
to discover は another world を修飾する不定詞で、「発見すべき世界」と訳せます。
後半の and more than one! は、前半の内容を補足する省略表現です。
and [there is] more than one [world]!
「しかも、一つだけではない!」
短い付け足しによって、発見すべき世界が数多く存在することを強調しています。
背景知識
ここまでニーチェは、道徳の世界にも反対側があり、異なる価値観にも存在する権利があると論じてきました。
この一文では、その議論が未来への展望へと変わります。
既存の道徳とは異なる価値観を認めることは、単に多様性を受け入れることにとどまりません。それまで見えなかった世界を発見することでもあります。
自分たちの道徳が唯一の正解だと思い込んでいれば、そこから外れた考え方は、間違いとして片づけられてしまいます。しかし、異なる価値観を探究すれば、これまで考えもしなかった生き方や世界の捉え方に出会えるかもしれません。
ニーチェの哲学は、既存の価値観を批判するだけでなく、新しい価値を発見し、創造する方向へと向かっています。another world が複数存在するという結びは、そうした可能性の広がりを示しているのです。
日本語訳
まだ発見すべき別の世界がある。それも、一つだけではないのだ!
第11文:哲学者たちよ、出航せよ!
Aboard ship! ye philosophers!
語彙
| 英単語・表現 | 意味 |
|---|---|
| aboard | 船に乗って、乗船して |
| ship | 船 |
| ye | あなたたち、汝ら |
| philosopher | 哲学者 |
ye は、古い英語や文語的な英語で用いられた二人称複数の代名詞です。現代英語の you に相当します。
aboard ship は「船に乗って」という意味ですが、ここでは哲学者たちに向けた呼びかけとして使われています。
構文解析
この文は、主語と動詞を明示しない命令・呼びかけの表現です。
-
Aboard ship!:船に乗れ!
-
ye philosophers!:哲学者たちよ!
つまり、哲学者たちに船出を促す言葉です。
タイトルの Aboard Ship! が最後にもう一度登場することで、断章全体が力強く締めくくられています。
背景知識
なぜニーチェは、哲学者たちに「出航せよ」と呼びかけるのでしょうか。
船出とは、慣れ親しんだ陸地を離れ、未知の世界へ向かうことです。この比喩は、既存の道徳や価値観にとどまらず、まだ知られていない世界を探究するという、それまでの議論を象徴しています。
哲学者がすべきことは、すでに確立された道徳を守り続けることだけではありません。自分たちが当然だと思ってきた価値観を疑い、別の可能性を探り、新しい価値を見いだすことです。
この文章における哲学者は、既存の価値観を説明するだけの人ではなく、未知の領域を切り開く探検家に近い存在です。
『喜ばしき知』が書かれた19世紀後半は、科学や宗教、道徳をめぐる従来の世界観が大きく問い直されていた時代でもあります。ニーチェは、そのような時代のなかで、人間がどのように生きるべきかという問題を、改めて考えようとしました。
この断章の「出航せよ!」という呼びかけは、哲学そのものを未知への冒険として捉える姿勢をよく表しています。
日本語訳
哲学者たちよ、船出せよ!
以上、『喜ばしき知』の断章を英訳で読解してみました。
他の著作や断章にも興味がある方は、拙著『ニーチェで学ぶ英語』を参考にしてみてください。
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