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なぜ『秘密の花園』はヨークシャー訛りの英語を使うのか

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『秘密の花園』を原書で読もうとすると、多くの読者が途中で立ち止まってしまう理由があります。

それは語彙の難しさでも、文法の複雑さでもありません。読者を戸惑わせるのは、登場人物たちが話すヨークシャー訛りの英語です。

この記事では、この作品におけるヨークシャー訛りとは何か、それが階級や土地、そして登場人物の変化とどのように結びついているのかを見ていきます。

『秘密の花園』に登場する方言は、単なる雰囲気づくりではありません。それは、英語が一つではないこと、そして言葉が人と世界をどう結びつけるのかを読者に体験させるための重要な仕掛けです。

読みづらさの正体を理解すると、この作品は英語学習の障害ではなく、むしろ「英語を理解する力」を育てる一冊として見えてくるはずです。

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作者バーネットと秘密の花園

まずは作者と作品について、簡単に押さえておきましょう。

フランシス・ホジソン・バーネット(Frances Hodgson Burnett, 1849–1924)は、19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍した作家です。

イギリスのマンチェスターに生まれ、のちにアメリカへ渡りました。

家庭の経済的事情から若くして文章で生計を立てるようになり、雑誌への寄稿や小説執筆を通じて人気作家となりました。

代表作には、

『小公子(Little Lord Fauntleroy)』
『秘密の花園(The Secret Garden)』

などがあり、いずれも児童文学として知られていますが、階級、教育、成長といった当時の社会的テーマを内包した作品でもあります。

ちなみに私はこの2冊も原書で読んでみましたが、内容は面白く、文章は読みやすいです。洋書多読のラインナップに加えることをおすすめします。

 

『秘密の花園』は1911年に発表された長編小説。

主人公はインドで育った少女メアリ・レノックスです。両親を亡くした彼女は、イギリスのヨークシャーにある叔父の屋敷、ミスルスウェイト・マナーに引き取られます。

荒涼とした原野(ムーア)に囲まれたこの屋敷で、メアリは閉ざされた庭園と出会い、さらに地元の少年ディコンや、屋敷に隠れるように暮らす病弱ないとこコリンと交流することになります。

物語は、秘密の花園をよみがえらせる過程と並行して、登場人物たちの心身の変化と成長を描いていきます。

自然との触れ合い、他者との関係、そして生活環境の変化が、人をどのように変えていくのかが大きなテーマです。

一見すると静かで素朴な児童文学ですが、舞台となるヨークシャーの自然や人々の暮らしが強く印象づけられていて、その表現の一つとして方言、すなわちヨークシャー訛りの英語が重要な役割を果たしています。

この作品は物語中盤で話の腰が折れるような展開があり、完成度としては他のバーネット作品のほうが上かと個人的には思います。ただ、作品のテーマ性の深さで際立つ存在です。

 

なぜ『秘密の花園』は英語学習者に読みにくいのか

『秘密の花園』は、児童文学として知られている一方で、英語学習者にとっては意外に読み進めにくい作品です。

その理由は語彙が難しいからでも、文構造が複雑だからでもありません。むしろ逆で、地の文に使われているバーネットの英語そのものは、非常に明快で読みやすい部類に入ります。

描写は簡潔で、文法も安定していて、学習用の多読教材として勧められることが多いのも納得できる文章です。

 

それでも多くの読者が途中で戸惑うのは、登場人物の会話に頻繁に現れるヨークシャー訛りの英語です。

特に、屋敷で働くマーサやベン、荒野で出会うディコンといった人物の台詞は、学校英語や参考書で学んだ英語とは大きく異なって見えます。

単語の形が違い、語順が崩れているように感じられ、ときには意味すら取りにくくなります。

こうした箇所を読むと、多くの学習者は「文法的に間違っている英語なのではないか」と感じます。

三人称単数の語尾が落ちていたり、be動詞が省略されていたり、見慣れない綴りの単語が使われていたりすると、誤植や古い英語ではないかと疑いたくなるのも自然な反応です。

しかし、ここで立ち止まって考える必要があります。

 

実際には、これらの表現は偶然でも不注意でもありません。

バーネットは意図的に、ヨークシャー地方の話し言葉を作品の中に書き込んでいます。

しかも、それは単なる雰囲気づくりではなく、物語の理解に深く関わる重要な要素です。

地の文が標準的で読みやすい英語で書かれているからこそ、会話部分の訛りはより強く際立ち、読者に違和感を与えます。

つまり、『秘密の花園』の「読みにくさ」は、英語のレベルが高すぎることによるものではありません。

英語が一つではなく、土地や人によって異なる「声」を持っていることに直面させられる点に、その難しさがあります。

この違和感こそが、バーネットが読者に体験させようとしたものなのです。

 

ヨークシャー訛りとは何か――標準英語との違い

ヨークシャー訛りとは、イングランド北部、特にヨークシャー地方で話されてきた英語の総称です。

一口に「訛り」といっても発音だけの問題ではなく、語彙、文法、表現の癖まで含んだ、ひとつの地域的な言語変種だと考えたほうがよいでしょう。

『秘密の花園』に登場するヨークシャー訛りも、単なるアクセント表現ではなく、標準英語とは異なる体系を持った話し言葉として描かれています。

 

まず押さえておきたいのは、標準英語そのものが「自然に生まれた唯一の正しい英語」ではないという点です。

標準英語は、教育、行政、出版といった分野で使われることによって形作られてきた、いわば共通語です。

一方、ヨークシャー訛りは、長い時間をかけて土地と生活の中で育まれてきた英語であり、話し言葉としての即時性や身体性を強く残しています。

 

具体的な違いは、いくつかの層に分けて見ることができます。

語彙の面では、標準英語ではあまり使われない単語や、同じ単語でも意味や用法が異なるものが登場します。

たとえば nay(no)や nowt(nothing)、summat(something)といった語は、ヨークシャー英語を特徴づける代表的な例です。

これらは辞書を引かなければ意味が分かりにくく、学習者にとって最初の壁になります。

 

文法の面でも違いが見られます。

三人称単数現在の -s が付かない、to be 動詞が省略される、冠詞が独特の形で使われるなど、標準英語の規則から外れているように見える表現が頻出します。

しかし、これらは「いい加減な英語」なのではなく、その地域で共有されてきた文法的な慣習です。

話し言葉としての効率やリズムが優先されていると考えると理解しやすくなります。

 

もう一つ重要なのが、いわゆる方言表記、英語では eye dialect と呼ばれる手法です。

これは、発音の違いをそのまま文字に反映させることで、読者の目に「標準英語とは違う英語」を強く意識させる書き方です。

綴りが意図的に崩されているため、意味は分かっても一瞬戸惑うことがあります。

『秘密の花園』では、この方法が多用され、ヨークシャーの話し言葉が視覚的にも異質なものとして提示されます。

 

このように、ヨークシャー訛りは標準英語の「崩れた形」ではありません。

土地、階級、生活と結びついた、別の英語のあり方です。

バーネットはこの違いを丁寧に書き分けることで、物語の舞台と人物像を、言葉のレベルから立ち上げているのです。

 

方言は階級と土地を語る

『秘密の花園』において、話し方の違いは単なる個性の表現ではありません。

どの英語を話すかによって、その人物がどの階級に属し、どの土地に生きているのかが、ほとんど説明なしに示されます。

方言は、この物語の中で社会的な位置を瞬時に可視化する装置として機能しています。

 

主人公メアリー・レノックスが話すのは、当時の上流・中流階級の教育を受けた子どもが使う標準英語です。

インドで育ち、使用人に囲まれて生活してきた彼女の英語は、命令や評価に向いた、距離を保つ言葉でもあります。

その話し方は、彼女自身が意識していなくても、「支配する側」「教育を受けた側」の立場を自然に示しています。

 

これに対して、屋敷で働くマーサや庭師のベン、荒野で出会うディコンの英語は、明確にヨークシャー訛りです。

彼らの言葉は、標準英語から見ると粗く、不規則で、洗練されていないように映ります。しかし、その英語は労働と生活の現場で使われてきたものであり、土地と密接に結びついた言葉です。

特にディコンの話し方は、自然や動物に向けて発せられる言葉として描かれ、教室や書物とは別の知のあり方を感じさせます。

 

重要なのは、これら二つの英語のあいだにある社会的距離です。

メアリーとマーサが最初に会話する場面では、内容以上に話し方そのものがすれ違いを生みます。

意味が完全には通じていないにもかかわらず、立場の違いだけははっきりと伝わってしまう。

その緊張感は、説明文ではなく、言葉の選び方によって生まれています。

バーネットは、階級差を露骨な説教や描写で語ることはしません。

その代わりに、どの英語が話されているかを示すだけで、読者に社会構造を理解させます。

方言は、登場人物の出自や教育歴、土地との距離を一瞬で語ってしまうのです。

この点で、『秘密の花園』におけるヨークシャー訛りは、単なるリアリズムのための装飾ではありません。それは、階級と土地が人間にどのように刻み込まれているのかを示す、物語上きわめて重要な要素なのです。

 

メアリーの変化と、自然の声としての方言

花園

物語の前半で描かれるメアリーは、ヨークシャー訛りの英語をほとんど理解できません。

マーサやベンの言葉を聞いても、意味以前に話し方そのものに違和感を覚え、無意識のうちに拒絶します。

その反応は、単に耳が慣れていないというだけでなく、彼女がそれまで身を置いてきた世界の価値観を反映しています。

標準英語こそが「まともな英語」であり、それ以外は劣ったものだという前提が、彼女の中には自然に存在しているのです。

 

しかし、物語が進むにつれて、メアリーの態度は少しずつ変化していきます。

最初は聞き取れなかった言葉に耳を傾けるようになり、意味を推測しようとし、やがてはその話し方に込められた感情や温度を感じ取るようになります。

完全に理解できなくても、「分かろうとする」姿勢が生まれる点が重要です。方言は、彼女にとって単なる障害ではなく、人とつながるための入り口へと変わっていきます。

 

最終的に、メアリーはヨークシャー訛りの英語に、荒っぽさではなく温かさを感じるようになります。

その言葉が、命令や支配ではなく、共に生きる感覚に根ざしていることに気づくからです。

この変化は、性格が丸くなったという心理描写だけで説明されるものではありません。彼女の「聞き方」、つまり言葉への態度が変わったこと自体が、成長の指標として示されています。

 

そしてこの体験は、読者にもそのまま重ねられています。

最初は読みにくく、意味が取りにくかったヨークシャー訛りの会話が、読み進めるうちに少しずつ自然に感じられてくる。

この構造によって、読者自身もメアリーと同じ道筋をたどることになります。理解できなさから始まり、慣れ、受容へと至るプロセスを、読書体験そのものとして味わわされるのです。

 

ここで重要な役割を果たすのが、ヨークシャーの自然です。

荒野(moor)と秘密の庭は、作品の舞台であると同時に、価値観の転換を象徴する空間でもあります。

荒野は整えられた庭園ではなく、規則や秩序よりも生命の力が前面に出た場所です。

その空間で交わされる言葉が、標準英語ではなくヨークシャー訛りであることには、はっきりとした意味があります。

ディコンが動物や鳥と自然に心を通わせる場面では、彼のヨークシャー訛りの英語が、まるで自然そのものの延長のように響きます。

特にコマドリとの関係に象徴されるように、この物語の自然は、人間の「正しい言葉」を必要としません。そこにあるのは、土地に根ざした声であり、生活の中で育まれた言葉です。

この意味で、ヨークシャー訛りは単なる人間同士のコミュニケーション手段ではありません。それは、土地そのものが発している声であり、自然と人とを結びつける媒介です。

メアリーがその声を受け入れられるようになることは、彼女が自然と調和した生き方へと近づいていくことを意味しています。

 

翻訳で失われるもの、しかし残せるもの

『秘密の花園』においてヨークシャー訛りが果たしている役割を考えると、翻訳が難しい作品であることがわかります。

方言は音、綴り、文法、語感が一体となった表現であり、それを別の言語にそのまま移し替えることは原理的に不可能だからです。

特に、日本語訳では、英語の地域差や階級差を一対一で対応させることはできません。

 

翻訳で最も失われやすいのは、「一目で分かる違和感」です。

原文では、標準英語の地の文の中に、突然、綴りの崩れた会話文が現れます。その瞬間、読者は視覚的にも「別の英語」に出会います。

しかし日本語では、標準語と方言の距離感や社会的意味が英語とは異なるため、同じ効果を再現することは困難です。関西弁や東北弁を使えば、別の文脈が立ち上がってしまいます。

 

また、方言が持つ階級的な含意も、そのままでは伝わりません。

ヨークシャー訛りは、労働と土地に結びついた言葉であり、教育制度の外側にある英語です。

しかし日本語の方言は、必ずしも同じような階級構造を背負っているわけではありません。そのため、原文で自然に伝わる社会的距離が、翻訳では弱まってしまうことがあります。

 

それでも、すべてが失われるわけではありません。翻訳によっても残せるものがあります。

それは、言葉の「粗さ」や「率直さ」、そして身体的な近さです。

短い文、直接的な言い回し、感情が前に出る語調を選ぶことで、標準的で整った言葉とは異なるリズムを作ることは可能です。

完全な再現ではなく、機能の置き換えとして方言を扱う余地はあります。

 

翻訳者は、常に選択を迫られます。どこまで方言らしさを出すのか、どこで読みやすさを優先するのか。

すべての違いを表現しようとすれば、読者は物語から離れてしまいますし、逆に均してしまえば、この作品の核が失われます。

そのあいだで、何を残すかを決めるのが翻訳という営みです。

『秘密の花園』の場合、重要なのは「どの方言か」を示すことよりも、「標準ではない声が語っている」という感覚を伝えることです。

土地に根ざした言葉があり、それに主人公が耳を傾け、変化していく。その流れが感じ取れるなら、翻訳はすでに重要な役割を果たしていると言えるでしょう。

 

まとめ&英文紹介

バーネットが『秘密の花園』でヨークシャー訛りを用いた理由は、一つではありません。

まず第一に、それは登場人物のためです。

マーサやベン、ディコンといった人物は、標準英語を話してしまえば、まったく別の存在になってしまいます。

彼らの言葉遣いは、性格や生き方、価値観と切り離せないものであり、方言によってこそ、その人物がその土地に「生きている」ことが示されます。

 

第二に、ヨークシャー訛りは物語の変化を描くために選ばれています。

メアリーは、最初から優しく、開かれた存在ではありません。彼女は閉じられた世界からやってきて、異質な言葉に戸惑い、拒み、やがて受け入れていきます。

その過程を、心理描写だけでなく、「言葉への態度」の変化として示すためには、標準英語とは明確に異なる声が必要でした。

方言は、成長を可視化するための装置でもあるのです。

 

第三に、そして最も重要なのは、読者自身を変化させるためです。

ヨークシャー訛りは、物語の外にいる読者にとっても読みづらいものです。

しかし、その読みにくさは失敗ではありません。読み進めるうちに耳が慣れ、違和感が薄れ、やがてその言葉に温度や優しさを感じるようになる。この体験そのものが、メアリーの変化と重ね合わされています。

 

最後に、本書から印象的な英文を紹介しておきます。

It is a Yorkshire habit to say what you think with blunt frankness, and old Ben Weatherstaff was a Yorkshire moor man.
“Tha’ an’ me are a good bit alike,” he said. “We was wove out of th’ same cloth. We’re neither of us good lookin’ an’ we’re both of us as sour as we look. We’ve got the same nasty tempers,
both of us, I’ll warrant.”
This was plain speaking, and Mary Lennox had never heard the truth about herself in her life. Native servants always salaamed and submitted to you, whatever you did. She had never thought much about her looks, but she wondered if she was as unattractive as Ben Weatherstaff and she also wondered if she looked as sour as he had looked before the robin came. She actually began to wonder also if she was “nasty tempered.” She felt uncomfortable.

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