私たちが日常的に使っている英語の語彙や表現、その背後には、しばしばシェイクスピアの影があります。
彼は単なる偉大な劇作家ではなく、英語という言語そのものの形を決定づけた存在だと言われてきました。
なぜ一人の作家が、数百年を経た現在においても、英語の「根幹」をなすと評価され続けているのでしょうか。
この記事では、シェイクスピアが活動した時代背景から、語彙と表現の革新性、社会階層を超えた言語の統合、教育と出版を通じた標準化、そして現代にまで及ぶ影響までをたどりながら、その理由を順を追って解説していきます。
近代英語が「定着」した決定的な時代に書かれた

シェイクスピアが英語の根幹をなす存在だと言われる第一の理由は、彼が活動した時代そのものにあります。
彼は「近代英語が定着する決定的な時期」に作品を書いた人物でした。
シェイクスピアが生きた16世紀後半から17世紀初頭の英語は、中英語から近代英語へと移行する過渡期にありました。
実際、チョーサーの時代の英語は、現代の私たちが読むにはかなり困難ですが、シェイクスピアの英語は、文法や語順の点で現代英語にかなり近い姿をしています。
これは偶然ではなく、この時代に英語そのものが大きく姿を変え、安定し始めていたからです。
この時期の英語では、次のような重要な変化が進行していました。
- 語順が比較的固定され、SVO(主語・動詞・目的語)の構造が一般化していく
- 動詞の活用が単純化され、語尾変化への依存が弱まる
- 助動詞(do, will, shall など)の用法が整い、疑問文や否定文の形が安定する
つまり、英語は「柔軟だが不安定な言語」から、「規則をもった共通言語」へと変わりつつあったのです。
シェイクスピアの重要性は、この移行期に大量のテキストを書いた点にあります。
英語がまだ完全に固まっていない段階で、戯曲と詩という形で、膨大な量の英語表現が記録され、広く読まれ、上演されました。
その結果、彼の用いた語彙や構文が、事実上の標準例として後世に残ることになったのです。
ここで注目すべきなのは、シェイクスピアが文法書や理論書を書いたわけではないという点です。
彼が提示したのは、生きた会話としての英語でした。登場人物同士が話し、怒り、悩み、恋をし、冗談を言う中で使われた英語が、そのまま作品として定着しました。
そのため、彼の英語は机上の規範ではなく、「実際に使われる英語のモデル」として受け継がれたのです。
また、この時代は印刷技術の発達によって、テキストが広く流通し始めた時期でもありました。
シェイクスピア作品は出版を通じて繰り返し読まれ、学校教育や知識人のあいだで参照されるようになります。
こうして、彼の英語は単なる一作家の文体を超え、「近代英語の見本」として社会に定着していきました。
シェイクスピアは、英語が形を定める決定的な瞬間に、その言語の可能性を最大限に使い切った人物でした。
そのため、彼の英語は後から振り返ったときに、「英語がこの形に落ち着いた理由」を示す基準点として機能するのです。
これが、シェイクスピアが英語の根幹をなすとされる大きな理由の一つです。
圧倒的な語彙創造力と表現力
シェイクスピアが英語の根幹をなす第二の理由は、彼の圧倒的な語彙創造力と表現力にあります。
単に多くの単語を知っていたというだけでなく、英語という言語そのものの使い方を拡張した点にこそ、彼の本質的な重要性があります。
シェイクスピアの作品には、当時としては新しかった語や表現が大量に登場します。
研究者によって数え方は異なりますが、彼が新たに生み出した、あるいは一般化させた語や言い回しは数百から千を超えるとも言われています。
しかもそれらの多くは、現代英語においても日常的に使われています。
たとえば、次のような語や表現です。
- lonely
- cold-blooded
- heart of gold
- break the ice
- wild-goose chase
これらは特別に文学的な言葉ではなく、現代の英語話者にとってごく自然な表現です。しかし、その多くがシェイクスピアの作品を通じて広まり、定着しました。
重要なのは、彼の語彙創造が学問的・理論的なものではなかった点です。
シェイクスピアは新しい言葉を「説明するため」に作ったのではありません。舞台上で登場人物が感情を表現し、状況を描写するために、必要に迫られて言葉を生み出しました。
そのため、彼の新語や新表現は、抽象的ではなく、常に具体的な場面と結びついています。
また、シェイクスピアは英語の品詞転換を大胆に用いました。
名詞を動詞として使い、形容詞を名詞のように扱うことで、表現に強い動きを与えています。
これは英語という言語の柔軟性を最大限に活かした使い方であり、その後の英語表現の方向性を決定づけました。
現代英語で当たり前に行われている品詞転換の多くは、シェイクスピアによって「許容される表現」として示された側面があります。
さらに彼は、抽象概念を具体的なイメージに変換する比喩の名手でもありました。
感情や心理状態といった捉えにくいものを、身体感覚や日常的な行為に結びつけることで、誰にでも理解できる言葉へと落とし込みました。
この比喩的表現の豊かさが、英語に強い表現力と記憶されやすさを与えたのです。
こうした語彙と表現は、詩の中だけで完結していません。シェイクスピアは、それらを対話の中で使いました。
登場人物が実際に話す言葉として提示されたことで、新しい語や表現は観客や読者の耳に残り、自然に模倣され、広まっていきました。
シェイクスピアは、英語に新しい言葉を加えただけではありません。英語が「どこまで表現できる言語なのか」を実例として示したのです。
その結果、英語は感情、心理、社会関係をより精密に表現できる言語へと進化しました。
この点において、彼の語彙創造力と表現力は、英語の基盤そのものを形作った要素だといえるのです。
あらゆる社会階層の英語を一つの作品世界に統合した

シェイクスピアが英語の根幹をなす第三の理由は、あらゆる社会階層の英語を一つの作品世界に統合した点にあります。
これは単なる表現上の特徴ではなく、英語という言語の社会的な位置づけそのものを変えた重要な要素でした。
シェイクスピア以前の文学では、使われる英語の種類は比較的限定されていました。
高尚な主題は高尚な文体で、庶民の生活は庶民的な言葉で描かれることが多く、両者が同じ作品内で正面から交差することはあまりありませんでした。
しかしシェイクスピアの戯曲では、この境界が意図的に取り払われています。
彼の作品には、王や貴族、将軍といった支配層の人物が登場する一方で、道化、召使い、兵士、酔っぱらい、市井の人々も同じ舞台に立ちます。
そして彼らは、それぞれの社会的立場にふさわしい英語を話します。
- 王侯貴族は、修辞に富んだ格調高い英語を用いる
- 知識人や聖職者は、ラテン語由来の語彙を交えた知的な英語を使う
- 庶民や道化は、口語的で俗っぽく、ときに下品な英語を話す
しかも、これらの英語は単に並置されるのではなく、劇中で互いにぶつかり合います。
高尚な言葉が冗談によって裏切られ、下品な言葉が鋭い真理を突くこともあります。
この言語的な緊張関係こそが、シェイクスピア劇の大きな魅力の一つです。
この統合がもたらした影響は大きなものでした。
英語は、それまで階層ごとに分断されがちな言語でしたが、シェイクスピアの作品を通じて、社会全体を横断する共通の表現手段として提示されました。
どの階層の人間であっても、英語で感情を語り、思想を表現し、他者と衝突できることが示されたのです。
また、専門領域の語彙が自然に劇の中へ取り込まれている点も重要です。
法律、軍事、医学、宗教、商取引など、当時の社会を支える多様な分野の言葉が、人物の台詞として使われています。
これにより、英語は日常会話だけでなく、社会制度や抽象的議論をも担える言語であることが明確になりました。
このようにしてシェイクスピアは、英語のフルレンジを一つの作品世界に収めました。
高低、雅俗、知と俗が混在するその言語空間は、英語が一部の階層のための言語ではなく、社会全体を覆う言語であることを印象づけました。
その結果、後世の英語話者は、シェイクスピアの作品を通じて、英語の使い分けと可能性を直感的に学ぶことになります。
これが、彼が英語の根幹をなす存在とされる、もう一つの重要な理由です。
教育制度と出版による「標準化装置」としての役割
シェイクスピアが英語の根幹をなす第四の理由は、彼の作品が教育制度と出版を通じて「標準化装置」として機能してきた点にあります。
これは作家個人の才能とは別の次元で、英語史に決定的な影響を与えました。
17世紀以降、イングランドでは教育制度が整備され、文法学校や大学で英語文学が正式な学習対象になっていきます。
その中で、シェイクスピア作品は早い段階から中心的な教材として扱われました。英語を学ぶことは、すなわちシェイクスピアを読むことだ、という状況が長く続いたのです。
この教育的な位置づけには、重要な意味があります。
英語学習者は、単語や文法を抽象的に覚えるのではなく、「正統な英語が使われているテキスト」としてシェイクスピアに触れました。
その結果、彼の語彙、構文、比喩表現が、無意識のうちに「模範的な英語」として刷り込まれていきました。
出版の側面も見逃せません。
シェイクスピアの作品は、四折本や二折本として繰り返し印刷され、広範囲に流通しました。とくに死後に刊行された全集は、作品を一つの体系として固定する役割を果たしました。
これにより、彼の英語は地域差や個人差を超えて、共有される参照点となっていきます。
さらに、18世紀から19世紀にかけての大英帝国の拡大は、シェイクスピアの影響力を世界規模へと押し広げました。
植民地の学校教育においても、英語文学の最高峰としてシェイクスピアが教えられました。
つまり、英語を「正しく」「高度に」使えるようになるための基準が、世界中でシェイクスピアに置かれたのです。
この過程で起きたのは、単なる文学の普及ではありませんでした。
シェイクスピア作品は、英語の語彙や構文、文体の「許容範囲」を定義する役割を果たしました。
どの表現が英語として自然で、どこまでの自由が認められるのか。その感覚が、教育と出版を通じて世代を超えて共有されていったのです。
その結果、シェイクスピアは「古典作家」であると同時に、「英語の参照文書」となりました。
文法書や辞書が規則を示すのに対し、シェイクスピアは実例を示しました。英語がどのように使われ、どのように響く言語なのかを、作品そのものによって教え続けてきたのです。
このように、教育制度と出版という社会的仕組みの中で、シェイクスピアは英語を標準化する装置として機能してきました。
その影響は現在に至るまで続いており、彼が英語の根幹をなす存在だと言われる大きな理由の一つとなっています。
いまなお「生きた参照点」であり続けている
シェイクスピアが英語の根幹をなす第五の理由は、彼の作品と言葉が、いまなお「生きた参照点」であり続けていることです。
単に過去に大きな影響を与えた作家なのではなく、現代の英語使用においても、現在進行形で参照され続けている点に、彼の特異性があります。
多くの古典文学は、歴史的価値はあっても、日常言語からは次第に切り離されていきます。
しかしシェイクスピアの場合、その影響は今も英語話者の言語感覚の中に溶け込んでいます。
英語の慣用句や比喩表現の中には、由来を意識せずに使われているシェイクスピア由来の表現が数多く存在します。
たとえば、日常会話や文章の中で、
- fair play
- in a pickle
- the green-eyed monster
- foregone conclusion
といった表現が自然に使われています。
これらは特別な文学引用としてではなく、「普通の英語」として機能しています。この点が、シェイクスピアを単なる古典にとどめない最大の理由です。
また、シェイクスピア作品は繰り返し翻案され、現代文化の中で再解釈され続けています。
映画、ドラマ、小説、舞台、さらには広告やポップカルチャーに至るまで、物語構造や台詞、人物造形が形を変えて用いられています。
こうした再利用の過程で、シェイクスピアの言葉や発想は、常に現代的な文脈の中で息を吹き返しています。
教育現場においても、シェイクスピアは「過去の遺物」として扱われているわけではありません。
英語表現の豊かさや比喩の力、人間心理の描写を学ぶための教材として、現在も読み続けられています。
そこでは、正解を暗記するのではなく、言葉がどのように意味を生み出すかを考える材料として機能しています。
さらに重要なのは、英語話者がシェイクスピアを「引用の貯蔵庫」として共有している点です。
政治的スピーチ、新聞の見出し、評論文などにおいて、シェイクスピア的な言い回しやもじりが使われると、多くの読者がその含意を直感的に理解します。
これは、シェイクスピアが共通の文化的参照枠として生きている証拠です。
このように、シェイクスピアは英語の歴史の中に固定された存在ではありません。
彼の言葉は、現在の英語使用の中で繰り返し呼び出され、意味を更新され続けています。
だからこそ、シェイクスピアは「英語の基礎を作った人物」であるだけでなく、「英語がいま理解され、使われるための参照点」であり続けているのです。
シェイクスピアを読むならどの作品から入るべきか

シェイクスピア作品は多くの名作・代表作がありますが、いずれも質の高い日本語に訳され、文庫化もされています。
まずは有名作品から読んでいくとよいでしょう。
ジャンルごとにいくつか挙げると以下のようなものがあります。
悲劇作品なら、
- ハムレット
- マクベス
- リア王
- ロミオとジュリエット
喜劇作品なら、
- ヴェニスの商人
- 十二夜
- 夏の夜の夢
史劇作品なら、
- ジュリアス・シーザー
- リチャード三世
などです。
なお、より詳しいおすすめ作品解説はnoteのほうに書く予定です。
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英詩の構造については以下の記事で解説しています。


